第9話

美容人生の始まり

太田菊子さんという婦人記者がいて、わたしに
「きっと、あなたに向くわよ」
といって薦めてくれたのが、開校したばかりの渋谷高等美容学院でした。
「学士さまならお嫁にやろう」で知られる当時ユーモア小説で有名だった奥野多見男さんの奥さんが、美容を新しい婦人の職業として学校組織で始めるというものでした。
太田さんは
「あなたが美容をやるなら、奥野さんの学校が理想的よ。新しい女性の職業としてぴったりよ。いまインタビューしてきたばかり」
というのでした。「伺ってごらんなさい」ともいいました。

新しい女性の職業・・・・魅力的な言葉でした。
しかしこれは、一生の一大事です。
当時女性が一人、仕事で生きる・・・ということは、今と違って至難の業だったのでございます。

そうした人生の岐路に、物心ともに力になってくれた人が、お友達の坂本梅子さんと、徳永恕子さん、それに片山哲さんでした。
昭和47年日本初の革新政党から首相になられた方です。

「自分が本当にやってみたいと思うなら、やってみたら」
わたしは、この道を選択することにしました。
女一人、生きていくことは大変でしょうが、そう心に決めたとき、こころに迷いはありませんでした。
わたしは決心しました。どんな苦労があっても、やり遂げようと堅く心に誓いました。

そして入学しました。

ちょうど「マーセルアイロン」の最初のころで、今までの「髪結いさん」とは全く違っていました。
授業は「美顔術」「衛生学」「薬学」「洗髪技術」「化粧」「着付け」「音楽」「ファッション」などで、現在の美容学校よりむしろ高度だったような気がします。

生徒さんは10人くらいだったと思います。
新しい仕事というイメージのせいでしょうか、全国から代議士のお嬢さんや、満鉄理事の奥さん、陸軍少将のお嬢さんなど、皆さん、ハイクラスの方々だったのでびっくりしました。

そればかりではありません。
月謝の高かったことにも驚きました。
しかし学校はとても楽しく励むことができ、充実の日々でした。
マーセルウエーブのきれいな髪形の婦人を見るためには、イタリー歌劇団や帝劇、歌舞伎を観劇するご婦人たちのヘアを見て勉強するのです。
私たちは、きれいなマーセルウエーブが見られるということで、胸をときめかせながら見たことを忘れることができません。

外国からきた映画を、帝国ホテルに見に行ったこともあります。
浅草では1円いくらかの映画だったのですが、ホテルに宮様もいらっしゃるというので、10円という大金を払って見たこともあります。
ちょっと贅沢な校外研究をしたものです。
しかし、そのころはアメリカ流の山野千枝子先生や、フランス流のマリールイズ先生のところでないと、美しいマーセルウエーブの店がありませんでしたので、やはり美容院は特殊階級のものというイメージがあったように思います。

 

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