第7話

時事新報社入り

学校を出て、洋裁をしようか、和裁をしようか、それともお花の先生になろうかと思いなやみました。

母方の身内で、池坊の梅村竹子先生のお宅に、内弟子としてお世話になることにしました。
先生は、気品が高く、皇族の華道の師であり、日英同盟でご訪日のコンノート殿下に、生け花を献花なされたことを大変名誉に思っていました。
おけいこも皇族、華族、宮内庁関係、実業家の奥様や令嬢でした。

そのせいでしょうか、今の方なら想像も出来ないほど作法がやかましく、ご自分の部屋におられても、聞こえてくる足音で、お茶のお稽古の心得が分かるほどでした。
門から玄関までの飛び石を毎日磨かされました。
お客さんでも「飛び石」を渡らず「土の上」を歩く人はすぐ分かって
「芳子、いま、お客様がお帰りになったけれど、土の上に下駄の歯型がついているでしょうから、直しておいで」
わたしは、土を平にしたり、玄関のたたきも、つるつるにしていたものでございます。

よくもまあ三年も我慢したものだと思っています。ただ先生にはお子さんがいなかったので、母はいずれ私が跡をつぐように思っていたようですが、わたしは別のことを考えていました。
若い新しい時代への憧れです。

「念ずれば通じる」という言葉がございます。
わたしを紹介する人がいて西銀座の時事新報社に入ることができました。
始めは販売部の帳簿をつけたりしていましたが、やがて広い編集部の中で仕事をするようになりました。
楽しかったのは新刊書がどんどん入ってきて、それをたくさん見ることができたことです。
女性記者には山下春江さんや女性で最初にNHKに入った大沢豊子さんらがいました。
机を並べた仲良しに坂本梅子さんという方がいました。
二人は妙に意気投合して、よく日比谷の図書館に通ったり、築地の新劇をみたり、社の向いに会ったバウリスターという有名なコ−ヒ−店へ行って、5銭でポテトケーキやドーナツ、コーヒーなどを楽しんだものです。
当時、そこは有名な文士たちが集まるところで、今もなつかしく思い出されます。

 

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