美容50年の移り変わり(前編)
昭和53年・中村芳子
人生50年夢まぼろしの如く・・・とは有名な織田信長のあの悲壮な最後の舞の一句ですが、私も美容歴50数年、思えば随分永いその道を一歩、一歩、歩み続けて参りました。
この路はまだまだ険しく、到達されませんが、技術、器具等の移り変わりをお話しましょう。
歌は世につれ、世は歌につれの移り変わりで大正の初期から、日本髪が束髪。
ゆくえ不明、七三などが流行しはじめ、関東大震災からは、耳かくし等、軽い洋髪時代になりました。
今、テレビの一ばん星で、あの頃の女性の髪や服装が放映されていますネ。
私はマーセルアイロンで勉強して開業しました。
鏝のかみと言い洋髪と呼んで、ウェーブで耳かくし七三、オールバック、髷なしでした。
アイロンは炭火で熱しましたが、私は当時最新のメーター付き電気アイロンをも使用して営業しました。
50年後、新しい技術としてまたコテの技術がみなおされていますネ、服装と共に歴史はくり返すとは・・
次に、パーマネントウェーブ
パーマネントマシン。外国製はクロッキノール式、スパイラル式。・・と、ぼつぼつ国内でも使用されはじめましたが、高価で当時の秋田ではとても営業になりません。
昭和9年に国産1号機を秋田に入れました。それは皆様もご存知のタコ足のような24ヒーターのパーマネントマシンです。
やっと世上に認められ、これからという時、支那事変となり、世相も変わり、18年からは電力使用禁止で、器具類は店に置けず、それに替わって・・・
A, 木炭パーマ
B, カーボンパーマ
C, ゾートス化学薬品
D, パイプのパーマで営業をしました。
人間というものは、石を持って追われても、窮すれば通ずるもので、次々と生きる為には考えるものですネ。
モンペをはいて、リュックを背負って、闇キップを買ってソリューションを東京まで買い出しに行きましたが、それも空襲で、東京は疎開となりました。
最後にY氏から東京での製造法を教えて貰い、それからは加熱用のソリューションを何年か自家製造しました。(今のパーマと呼ばないで下さいという加熱式のソリューションと似たものでしょう)
戦時中でなかなか原液が手に入らず、火傷はするし、10指は赤く腫れるし、今の美容師には想像もつかない苦難でした。
今でも私の指は節くれ立っています。それでもお客様は炭を持参で、不自由な汽車で来て下さいます。
すさむ世相にも美を求める女心のいじらしさに、私は報ゆる使命感でいっぱいでした。
髪型もワンロール・モンペ姿に似合う土管まき等、いわゆる淑髪時代です。
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